2016年12月16日金曜日

難しい問題

 難しい問題に直面すると人は悩みます。それが他の人にとってたいした問題ではなくても、本人にとって重大な問題であるならばなおさらです。僕は最近『言葉は何のために存在するのか』について考えてしまいます。
 たとえば大金持ちの人がいたとします。その人は離島のお城に住んでいるのですが、周囲には家はなく友達も家族も恋人もおらず、家のお手伝いさんが家事全般をこなしています。その大金持ちは、お手伝いさんに筆談で指示を出します。よって、言葉を話す必要がありません。このような場合、言葉の必要性はあるのでしょうか。彼は生きていくだけの財産を持ち合わせており、家のことはお手伝いさんがやってくれる、誰かと話す用がないのです。
 それでは大金持ちのたとえ話は置いておいて、一般的なたとえ話で考えてみることにします。Aさんは職場のBくんに思いを寄せています。Aさんはそれを同僚のCさんに打ち明けました。するとCさんは血相を変えて「やめといたほうが良いよ。彼とんでもない遊び人だよ」と忠告します。この話を真に受けてしまうと、AさんはBくんには近づきもしないでしょう。つまり、AさんはBくんと言葉を交わすことがないので言葉の必要性は無くなってしまいます。当然、Bくんが本当はどんな人なのか知ることはできなくなってしまいます。しかし、AさんがCさんの忠告を無視し、Bくんと話をしてみると、Bくんは非常に誠実な人で遊び人とはほど遠い人物だということがわかりました。実はCさんはBくんのことが気になっており、何度か積極的な態度をとったのですが、全く相手にされなかったためその腹いせとしてAさんに嘘の噂話をしたのでした。
 あくまでもたとえ話ですが「あの人は怖い人だ」と言われている人と実際に言葉を交わしたら全然怖い人ではなかった、むしろ感じの良い人だったということは身近にある話です。言葉があるおかげで誤解が解け、人との距離が縮まる。これは素晴らしいことですし、言葉はそのために存在するのだと思います。
 最初のたとえ話の大金持ちに話を戻します。彼に「私に言葉は必要ない。話す必要がないじゃないか」と筆談で終わらされてしまうと僕には返す言葉が見当たりません。そこが難しい問題なのです。



0 件のコメント:

コメントを投稿