現在のジャイアンツ、それからジャイアンツファンが熱狂的なのは長嶋茂雄がいたからに他なりません。そして読売ジャイアンツ長嶋茂雄誕生にはいくつもの偶然が存在するのです。長嶋茂雄は高校時代を無名のまま過ごすのですが、公式戦でとんでもないライナー性のホームランを放ちます。それを目撃したのが久保田高行という新聞記者であり、彼からの話が人から人へと伝わり、長嶋茂雄の名が知れ渡るようになりました。立教大学進学も、このホームランがあったからこそです。もしも長嶋がホームランを打たなかったら、もしも久保田がその試合を観戦していなかったら、のちの長嶋茂雄は誕生していなかったかもしれません。
「長嶋茂雄さんは立教大学の何学部出身ですか?」とインタビューアーに聞かれ「野球部です」と答えていた長嶋茂雄ですが、実際は立教大学の経済学部に入学をしています。立教大学時代はすでに、スーパースター。卒業後は読売ジャイアンツへの入団、ここから先の大活躍は語るまでもありません。特に1959年の6月25日に行われた天覧試合。これは昭和天皇はじめてのプロ野球観戦でした。この試合4対4の同点で迎えた巨人9回裏の攻撃、天皇陛下が時間の都合上、席を立たなければならなかったまさしくその時、長嶋茂雄は逆転サヨナラ本塁打を放ったのです。現在では考えられないことですが、当時はプロ野球よりも大学野球のほうが人気が高かった時代。天覧試合のサヨナラ本塁打により、プロ野球の人気の火付け役となったのも長嶋茂雄だったのです。
長嶋茂雄の現役時代の成績を振り返ってみるとよくわかるのですが、通算安打こそ2000本を超えていますが、それ以外に圧倒的に目立った記録はありません。つまり、記録よりも記憶に残るを地で行く男が長嶋茂雄なのです。1974年の現役引退時の「わが巨人軍は永久に不滅です」の有名な言葉も永久に記憶に残る不滅の名言であると言えます。
現役引退後の長嶋茂雄は当然、読売ジャイアンツの監督となります。その後、浪人時代もありますが、ジャイアンツの監督のイメージは長嶋茂雄しか当てはまりません。しかもFAで良い選手ばかりをかき集める印象は、スター監督ならではでした。通算で15年監督を務め、リーグ優勝5回、日本一は2回です。それなのにメークドラマやメークミラクルといったミスターの言葉を僕ははっきりと記憶しています。やはり監督としても記録より記憶に残る男なのです。
長嶋茂雄が育てた名選手の代表が松井秀喜だと思います。阪神入りを熱望していた松井秀喜をドラフトで引き当て、見事な大リーガーに育て上げました。2013年、お揃いのスーツで出席した長嶋茂雄と松井秀喜の国民栄誉賞ダブル受賞は、師弟関係の素晴らしさを表していました。
ここからは今後の話になります。長嶋茂雄は存在そのものが光輝く太陽のようなものです。2020年に開催される東京オリンピック。長嶋茂雄には何らかの形でかかわって頂き、日本のファンを喜ばせて欲しいと願っています。
考えたくありませんが、長嶋茂雄にもしもの時があったら、その時には間違いなく国葬になることでしょう。
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